2021年3月8日(月)ー3月13日(土)
ゲスト:中島千波
書:熊谷雲炎
※この展覧会は現代の日本画家が万葉集の中から一首選び、その歌からイメージを汲み出して各作家が描いたものです。
中島千波 (賛助出品) 「春宵梅」 2020年作 F8 6,400,000円(税別)
ぬばたまの その夜の梅をた忘れて 折らず来にけり 思ひしものを 巻三(三九二)・大宰大監大伴宿禰百代
【現代語訳】 ぬばたまのような暗い夜に咲いていたあの梅の花をつい忘れて手折らずに来てしまった。かねてからあのひとのことを思っていたのに。
【解説】 大伴百代がかねてから大切に思っていた梅の花を手折らずに帰ってきてしまったことを悔やんだ一首ですが、梅の花を想い人に譬えた恋の歌です。「ぬばたま(射干玉)」はヒオウギという草の実のことですが、この実が真っ黒であることから、「ぬばたまの」という「黒」「夜」などにかかる枕詞として用いられるようになりました。 梅は桜と違って日本に自生していた植物ではなくて、その起源は中国だと言われています。万葉時代は梅が渡来して間もない時期であったと考えられ、梅を知るのは貴族など一部の特権階級に限られていました。なので当時未開の地とされた東国で詠まれた東歌には梅は1首も登場しません。高貴な花だったのですね。ちなみに新元号「令和」の出典は万葉集第五巻「梅花歌」の引用です。
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(左)桒原雅美 「強く儚きもの」 M10号 80,000円(税別)
我がやどの 夕蔭草の白露の 消ぬがにもとな 思ほゆるかも 巻四(五九四)笠女郎
【現代語訳】 わが家の庭の夕映えの中に光る草の白露のように消えてしまいそうなほどに心が切なく思われます。
【解説】 笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った二十四首の相聞歌のうちの一首。 「夕影草(ゆふかげくさ)」は夕日の射す中で光る草。 そんな「わが家の夕映えの中に映える草の白露のように消えてしまいそうなほどあなたを思って切ない心です」と、家持を思う恋心の切なさを訴えかけています。万葉集には多くの恋歌が集録されていますが、そんな中でもこの笠女郎が家持を思って詠んだ一連の恋歌はとくに現在を生きるわれわれに共感させる切ない思いを持っているように思います。
大伴家持は、正妻の坂上大嬢や若い頃に死んだ妾の他にも多くの女性と恋の駆け引きを演じました。家持は自ら女好きの男であったとともに女性からも好かれるタイプだったようです。そんな家持が、何人かの女性との間に交わした相聞歌が万葉集に載せられています。家持の愛した女性たちには優れた歌い手が連なっていました。家持と相聞の歌を交わした女性としては紀女郎や平群の女などいくつかの名があげられますが、歌の技量の点では笠郎女がもっとも優れています。
(右)伊達もくらん 「ゆらり、ゆらり」F10 80,000円(税別)
夢のみに 見てすらここだ恋ふる我は うつつに見てば ましていかにあらむ 巻十一(二五五三)・作者不詳
【現代語訳】 夢の中だけに逢ってもひどく恋い焦がれる私は、もし貴方に本当にお逢いしたら、一体私はどうなるでしょうか。
【解説】 情熱的な恋歌ですね。恋しい人への想いが激しく伝わってきます。 「ここだ」はなはだしく。(こんなにも)ひどく。「見てば」逢ったならば。「まして」いっそう。もっと。
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(左)大島智子 「いささむら竹」 F6 100,000円(税別)
わが宿の いささ群竹吹く風の 音のかそけき この夕べかも 巻十九(四二九一)・大伴家持
【現代語訳】 私の家の庭のわずかに生えている竹の茂みに風が吹いてきて、いまにも消えてしまいそうな竹の葉のすれ合う音が聞こえる。この夕べのなんと素晴らしいことよ。
【解説】 日はもう暮れ始め、しだいに闇が訪れようとしている。昼間しきりと聞こえていた鳥の声も止み、あたりは静かさにつつまれ始めた。 私の家の庭の少しばかりの竹の茂みに風が吹き寄せてきて竹の葉のすれ合う音が聞こえてくる。いままで気づくかなかったが、夕風が少しばかり吹き始めたようだ。この静かな夏の夕暮れと竹の葉の消え入りそうにすれ合う音がなんとも言われぬすばらしさだ。 いささ群竹。あまり竹を茂らせない趣深くしつらえられた庭を感じさせる。「かそけき」はかそけし(幽けし)の連体形で、音、色、光などが今にも消えてしまいそうなようすをあらわす。 この「かそけき」を発見し、今にも消え入りそうな竹の葉のすれ合う音に焦点をあてた。そこに美しさ、心の豊かさ、心ふるわせるものを見出だし素晴らしい夕べだと感動している家持の繊細さ、感受性の豊かさに感動する。
(右)甲斐めぐみ 「Waiting for Spring」 10F 80,000円(税別)
桜花 時は過ぎねど見る人の 恋ふる盛りと 今し散るらむ 巻十(一八五五)・作者不詳
【現代語訳】 桜の花はまだ散るときではないのに、愛でてくれる人がいる盛りのうちにと思って散ってゆくのだろうか。
【解説】 まだまだ盛りのうちに退くというのもひとつの美学というのは、昔からあった身の処し方のようです。 「桜の花は、最も美しい盛りに、今こそと散って行く。だからこそ、余計に心を惹かれるのだ」と、ある意味で「美しさ」の本質を見抜いています。かなり凝った感じ方と云えましょう。桜児の歌にも、此処まで意識的ではありませんが似たような見方が根にあることは確かです。尤も、このような美女の伝説は古く、他にもゆく似た話が万葉集に幾つか見えます。
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(左)林 不一 「舞人(まいびと)」 F10 200,000(税別)
生ける者 つひにも死ぬるものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな 巻三(三四九)・大伴旅人
【現代語訳】 生きている者も最後は必ず死ぬのだから、せめてこの世にいる間は楽しくいたいものだ。
【解説】 大伴旅人(おほとものたびと)の「酒を讃むるの歌」のうちのひとつ。 「生きている者も最後は必ず死ぬ」とはいつの世でも変わらぬ理ですが、万葉の時代の人々はとくに医療などの発達した現在よりも死を身近に感じていたはずです。また、皇族や貴族などでも政争によって命を奪われてしまうことが度々ありました。 事実、旅人が筑紫に送られてしばらく後、長屋王の変が起こり旅人とも親交のあった旧貴族派の長屋王が藤原四兄弟の陰謀で殺されてしまいます。筑紫行きは旅人の本望ではなかったかも知れませんが、それでもそんな争いに明け暮れている中央(奈良の京)から距離を置いた地にいて旅人は今の世を楽しく生きようと酒に誓ったのかも知れません。
(中)賀川明泉 「音のかそけき」F10 150,000円(税別)
わが宿の いささ群竹吹く風の 音のかそけき この夕べかも 巻十九(四二九一)・大伴家持
【現代語訳】 私の家の庭のわずかに生えている竹の茂みに風が吹いてきて、いまにも消えてしまいそうな竹の葉のすれ合う音が聞こえる。この夕べのなんと素晴らしいことよ。
【解説】 日はもう暮れ始め、しだいに闇が訪れようとしている。昼間しきりと聞こえていた鳥の声も止み、あたりは静かさにつつまれ始めた。 私の家の庭の少しばかりの竹の茂みに風が吹き寄せてきて竹の葉のすれ合う音が聞こえてくる。いままで気づくかなかったが、夕風が少しばかり吹き始めたようだ。この静かな夏の夕暮れと竹の葉の消え入りそうにすれ合う音がなんとも言われぬすばらしさだ。 いささ群竹。あまり竹を茂らせない趣深くしつらえられた庭を感じさせる。「かそけき」はかそけし(幽けし)の連体形で、音、色、光などが今にも消えてしまいそうなようすをあらわす。 この「かそけき」を発見し、今にも消え入りそうな竹の葉のすれ合う音に焦点をあてた。そこに美しさ、心の豊かさ、心ふるわせるものを見出だし素晴らしい夕べだと感動している家持の繊細さ、感受性の豊かさに感動する。
(右)増田晶美 「みていたい。」10号
相見ては 面隠さるるものからに 継ぎて見まくの 欲しき君かも 巻十一(二五五四)・作者不詳
【現代語訳】 離れているときは会いたくて会いたくて震えるのに、実際に会うと恥ずかしくて、相手の顔もまともに見られない。本当はずっと見ていたいあなたよ。
【解説】 三十一文字しかない短い詩句の中に初々しい乙女の仕草が目に見えるようです。恋する乙女の胸の内が、乙女らしいすなおさで表現されています。相手の男性は、会うといつも熱いまなざしで可愛い彼女の顔を見つめたのでしょう。
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(左)本間孝江 「国々の 」F10 80,000円(税別)
国々の 防人集ひ船乗りて 別るを見れば いともすべなし 巻二十(四三八一)・神麻續部嶋麻呂
【現代語訳】 各国から来た防人(兵士)が集まり、船に乗って子供や妻と別れて出発するのを見ると悲しくなってしまいます。
【解説】 太平洋戦争中、万葉集を懐にしていた若い兵士が多かったという話はよく聞きます。戦場に駆り出された若い兵士たちが戦地で、どんな思いで家族を思っていたか、その苦しみや悲しみ、戦争の不条理はいつの時代も変わりません。見送り人たちの悲しみも如何ばかりかと想像されます。
(中)青木 園 「 桜 」F6 80,000円(税別)
見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 咲きにほへるは 桜花かも 巻十(一八七二)・作者不詳
【現代語訳】 見渡すと春日の野辺に霞が立って、輝くほどに咲き誇っているのは…あれは、桜の花だろうか。 【解説】 にほへるは香りではなく彩り鮮やかという意味です。かぐやかなる匂いがするがごとき美しい色と言う事でしょうか。野辺に咲き誇る桜が目にみえるようです。
(右)栗田成己 「潜り抜ける夜」楕円変形10号 50,000円(税別)
ぬばたまの 夜渡る月を留めむに 西の山辺に 関もあらぬかも 巻七(一〇七七)・作者不詳
【現代語訳】 真っ暗な夜空を渡る美しい月を留めておくために、西の山辺に関所でもあればいいものを。 【解説】 西の山辺に関所があったら、月が沈まないように留めておいていつまでも眺めていることが出来るという発想はおもしろいですね。いかに美しい月だったか想像が出来ます。
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(左)松本久美 「夢みし見ゆる」
み空行く 月の光にただ一目 あひ見し人の 夢にし見ゆる 巻四(七一〇)・安都扉娘子
【現代語訳】 大空を渡る月の光で一目だけお顔を見た人を夢に見ました。
【解説】 安都扉娘子が、月の光の中で一目だけ見た男性に恋をして夢にその相手を見たとの一首となっています。 この時代、夢に人が現れるのはその人が自分のことを深く思ってくれている証だとの俗信がありましたが、この歌の場合は逆に安都扉娘子自身が相手を深く思った結果として夢に相手を見たわけです。 この時代の女性が夜に出歩くことなどほとんどなかったはずなのでこの歌も虚構の一首か、あるいは夜の戸越しにでも道を歩む姿を見たのかも知れませんが、万葉集の時代にも一目惚れということがあったのですね。
(右)藤倉春日 「つらつら椿」S10 150,000円(税別)
巨勢山の つらつら椿つらつらに 見つつ思はな 巨勢の春野を 巻一(五四)・坂門人足
【現代語訳】 巨勢山のつらつら椿を、その名のようにつらつら見ては賛美したいものだなあ。巨勢の春の野を。
【解説】 大宝元年(七〇一年)の秋、持統天皇が文武天皇とともに紀伊国の「紀の牟婁(むろ)の湯」(白浜温泉)に行幸したとき、同行した坂門人足が詠んだ歌です。 一見、単純に秋に訪れた巨勢山(奈良県)で、春に咲く椿を見てみたいものだと言っているようにも取れますが、この歌も土地誉めの要素が強く巨勢山を賛美することで土地の精霊の加護を受けて旅路の無事を祈る歌なのでしょう。 また、この歌の特色のひとつとして、歌の「調べ(リズム)」の滑らかさは特筆すべきものがあるように思います。 「巨勢山の…巨勢の春野を」、「つらつら椿つらつらに」など繰り返しの技法を使うことで、歌を口ずさんだ時に非常に心地よくすらすらと暗じられるようになっています。
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