シュタイナーに関して、そんなに詳しく理解しているわけではないが、シュタイナーの考えの中で、「意識、それは人類が生まれるずっと前、この宇宙が出来
たときからすでに、エネルギーという形で存在していた。その『意識』が様々な衣装を身につけて、今いっとき人間の形をしたり、鳥や花、石になっているだけ
である。」というものがある。
私は絵画制作を出発点とし、インスタレーションや写真表現へと展開して来た。絵画制作では、絵の具という物質を自身の意識の中で、固有名詞を用いること
ができる形にすげ替えることができると考えている。つまり形態や空間の意識がなされなければ、絵の具は物質のままなのである。
インスタレーションや写真においても、意識がどれだけ創作活動に働くかであろう。自身の表現活動の中では、『意識』がさまざまな衣装を身に着けるという感覚をかなり前から覚えている。
今回の私の写真作品は、もの(花)の形態を描き出すということよりも、あるかないかわからない、曖昧な存在を表現するという目的で制作した。また、もの
(花)が存在する空間自体も「光」と「闇」の場を設定し、現実的な上下左右、奥行きという空間ではなく、具体性を排除した「存在する事実」のみを表出した
かったのである。
さらには、「造花」を撮影することにより、本来、命のないものに命を与えるかのような効果が「光」と「闇」の場を設定することから生まれているのであ
る。そして、「闇」の中に描き出される「生」と、「光」の中に描き出される「死」を想起させる言葉を作品から発することができればと思っている。
シュタイナー教育の水彩画には、ゲーテの色彩論によるところが大きいといわれているが、「光と闇の中間にあって、この両極が作用し合う『くもり』の中で
色彩は成立する」というゲーテの論述を引用するならば、私にとっての「くもり」は、モノクロームの中での「存在の曖昧さ」を生み出す、とっておきの領域な
のである。
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